こんにちばんは、2020年6月末ごろ都内某社に勤めながら那須の田舎に移住した文生伊(あおい)です。
ちょうど40歳という節目も迎えたことだし、我が半生を振り返ってみようと思います。
一度文字に落とすことで、子供の頃の自分という生霊から解放されるといいな、との願いも込めて、書いてみる事にしました。
ひとつだけ、この記事から絶対に得られる特典があります。
”帰国子女”に対する漠然とした憧れやコンプレックスから解放される!
理由は下記です↓
記憶に残っていない幼少時代
実は私、幼少の頃の記憶がほとんど無いんです。特に9歳頃までの記憶はほとんど無いに等しいです。
それなりにお友達と遊んだりお習い事をしていた状況証拠(写真)は残っているのですが、何度見ても
他人のアルバムを見せられているような感覚が拭えない。
私の誕生日会の真ん中には…
とはいえ、ごく一般的な家庭で生まれ育ち、そんなに酷くない家庭だったろうと思います。
私がどんな子だったのかを良く表している一枚の写真があります。
笑っちゃうんですが、私のお誕生日会の写真で、ケーキの前=テーブルのセンター席で満面の笑みを浮かべ映っている女の子が私ではないんですw
私は自分が主役の日であるにもかかわらず、大人しく端っこでぼーっと座って映っていました。
我が子の誕生日に、5~6歳の女の子に「真ん中の席はあおいちゃんに譲ってね」と言えない母も気の弱すぎる内向型の人間だという事がわかりますよね。
間違いなく私はこの母の性質を引き継いでいます。
意思がない
トラウマによって記憶が封じられるというケースがあるようですが、私の場合は「自分の意思が無さ過ぎて記憶する能力にも欠けていた」んじゃないかと思っています。
「父がいつも家にいない」という印象と合わせて残っているのが「いつも何かに怯えていた(遠慮していた)」様な、そんなイメージでなんです。
お父さんの言う通り、お母さんの言う通り、先生の言う通り、おともだちの言う通り…「いい子」にしてれば平穏に毎日が過ぎていくのだと、そう思っていたのではないでしょうか。
地獄の一歩手前!?差別とイジメの日々
私の曖昧な記憶が鮮明度を増すのが8~9歳頃。
アメリカに引っ越してしばらく経った頃からです。
おそらく、「外国」が何なのかも理解していなかった私が、あまりのショックに自我(脳)が覚醒したのでしょうw
戦争…??
最初の強烈な記憶はある朝のスクールバスの出来事。
前の席に座っていた男の子がクルっと振り向いて私にこう言ったんです。
いや、「死んで償え」とは言ってないかもしれませんが、「絶対に許さない」「死ねばいいのに」的な事を言われたように記憶しています。
最初は、何のことを言っているのかサッパリわかりませんでした。当然ながら、誰を殺したこともなかったし。
でもどうやら、戦争の話をしてるようなのです。
当時小3~4ぐらいの私からしても、更に年下と思われる男の子。そんな幼い男の子が、太平洋戦争を持ち出してきて責めてくるなんて…
「戦争」についてはこの出来事の前からなんとなく教えられてはいましたけど、「お父さんお母さんが生まれるよりも遥か昔にそんな事があったらしい」程度の理解ですよ。だってまだ8歳とか9歳とかですよ?
「雷で撃たれたような」ってありふれた言葉ですが、それ以外の表現が思いつかないほどの衝撃でした。
ブスでキモいニホンジン!!
その男の子以外にも、差別や嘲笑は矢のように降ってきました。
子供って残酷ですからね。そりゃーもー容赦ないですよ。
でもね、悪口って何語でもわかっちゃうものですよ。
性格とかではなく、日本人的な外見(あるいは日本人であるという事そのもの)についてイジメられていることは、明白でした。
私がアメリカにいた頃は日本がちょうどバブル絶頂期の頃。
多くの日本企業が海外進出し、旅行も盛んで、ちょっと前の中国人観光客による「爆買い」とまったく同じ行動をとっていた時代です。
そりゃーアメリカ人側からしてみたら日本人は煙たい鼻につく存在だったでしょうね。
ニホンジンだから…でも
何故自分がそういう目に遭わなきゃいけないのか理解はできなかったけれど、はっきりと分ったのは
唯一の救いは日本人補習校の友達。皆の話を聞く限り、通っている現地校によって差別やイジメに差が大きかったみたい。
酷い目に遭った子は指導者である教師にまで露骨な差別をされて不登校になってたぐらい。
その点、私は何人かの教師に冷たくされたり無視されたけど、大多数が差別反対派だったから助かった。
『上を見たらキリがないけど、下を見てもキリがない。』
『世の中には色んな人がいて、色んな境遇があって、紙一重のところでどっちに転ぶかわからない状況で生きてる。』
その悟りのおかげで、差別・イジメ地獄の中にも輝く楽しみを見つける事が出来、なんとか生き抜けたのだと思います。
日本人補習校とは、週1回だけ日本の学校のカリキュラムに近い学問を教わる塾のような場所のことです。
「母国」??いや地獄でしょ
他人とは違うニホンジンであるという事で差別やイジメに遭いましたが、同時に「他人と違う事を誇れ(差別化は大事よ)」という教育方針でもあるのが人種のるつぼ・アメリカ。
たくさん悩みつつも、英語を習得しながら友達もできて、打ち込める趣味も見つけて、学問が楽しく成績も上々だったある日、
青天の霹靂でした。
もちろん、いつかそういう日が来ることはわかっていましたよ。でも、
という父の理屈がまったく理解できなかったんです。
だって、それって「差別」でしょ?アメリカの教育ではマトモな人間になれないって言ってるよね?
アメリカ人に差別されて怒ってる人が、逆に差別してもいいの??
父に対して感じていた不満はその時にハッキリと不信感へと変貌しました。とはいえ当時15歳の私にはどう抗う事も出来ず、共に帰国することに。
キコクシジョ
差別やイジメを通して自分はニホンジンであるという事実を痛感していた私でしたが、日本に住んでいた頃の記憶はほとんど無い状態。
アメリカの私にまで届く日本の学校の情報と言えば、髪の色やスカートの丈、下着の色までを細かく指示される異様な制度とか、人と違う事で陰湿なイジメに遭い生徒が自殺に追い込まれた事件とか。
もはや日本は人権の無い恐ろしい異国である、というイメージになっていました。
案の定、私は日本の「異様な」学校に馴染めませんでした。
恐れていた環境よりは遥かにマシで、制服や髪の毛についてのルールも緩かったし、何より、良い友人にも恵まれました。
でも、何かっちゃー「キコクシジョ」という色眼鏡で見られる。
アメリカ時代とは違い、露骨な差別やイジメはなかったけど、陰湿というか冷たいというか距離を置かれている感じ?
ニホンジンがやっと馴染むべき環境を得たはずなのに、どうやら「キコクシジョ≠日本人」。
すぐに学校が苦痛でしかなくなりました。見る見るうちに学力は低下し、特に教師をはじめとする「日本人」達に心を閉ざしてしまいました。
世の中が私を嫌う以上に
そんなこんなで、私の高校生活は暗黒まみれ。
仲良くしてくれる子達もいたし、彼女たちのおかげで闇に完全に飲み込まれずに済んだのだと思いますが、毎日が生きてて辛かった。
父とのギクシャクした関係性のせいで家にいたくないから、学校行きたくないけど行くしかない。
学校に行っても心が闇に閉ざされた人間は何を言っても何をやっても「棘」しかないから嫌われる。
でも、周囲に嫌われる以前に、
私が一番私を嫌いですからーーーっ!!!
どこにも居場所のない自分なんて嫌い。居場所を作れないのは自分がニホンジンでキコクシジョだから。
でも、この烙印を消す方法なんてどこにも無い。
どこにも無いんだよ!!!
光と闇の大学生時代
そんな状態で大学に進学するのですが、話が長くなってきたので一旦やめます。
半分以上が自分の為に書いている記事なので、誰にも読まれなくても続きを書くと思います。いずれ。